こんにちは、うおやあずさです。
「何故ポンコツになろうと思ったんですか?」
「あずさんはどうやってポンコツのまま幸せになれたんですか?」
この質問いろんな方に聞かれます。
まあ確かに、質問する人の気持ちもわかるし、
私も昔は皆と同じように恋も仕事もつい頑張りすぎて
いつも気づくとしんどくなってました。
まずは簡単に自己紹介。
現在頑張りすぎて仕事や恋をこじらせているアラサー女子に向けて
コーチング&カウンセリングを提供。
過去に自分自身が重度のアトピー&子宮の病気を患った事があり
アトピーや子宮系のコンサルもしてました。
独身OLや主婦の方のマインドケアや冷えとり指導、メイクやスキンケアアドバイスをし
コンプレックスを力に変え自分を認め、自分らしく生きる女性を増やす。
あと実はwebマーケティングやweb広告関連が得意で
こちらは法人で仕事しています。(実はまだバリキャリ?w)
電車に乗らない通勤スタイル。
朝昼晩、無料で食事が出るIT会社へ勤務。
3階建一軒家に住み、休みの日は屋上テラスでのんびりしたり
友達や彼を呼んでパーティしたり、花火見たり。
でも本当はワイワイより1人の方が好きだったりする。
そして独立5年目の一つ年上の社長の彼がいます。
ま、プチ自己紹介はこの辺にして。本題へ行きますね。
目次
私がポンコツになろうと思った理由
結論から言うと
・仕事のしすぎで救急車で運ばれたから。
・無理ばっかして子宮頸がん軽度異形成になったから。
・頑張り続ける自分に疲れたし嫌気がさしたから。
このあたりが一番大きい理由ですかね。
あとは
・ピラミッド社会に興味がなくなった
・周りと比べられる事に飽き飽きした
・「頑張る」には終わりがないことに気づいた
・いい加減、ラクになりたい(笑)
こんな感じの理由もあります。
今パッと思いつくのはこれかな。
では、私の昔話を通して
今なぜアラサー女子にポンコツをススメるのか?
書いていこうと思います。
幼少期からのアトピー。成人で重症に。
私は生まれつきアトピーがありました。
幼少期はよく見られる
関節部分のみのアトピーでした。
アレルギー検査は、何もひっかからない、花粉症でもない。
なのに、何故かだんだん炎症はひどくなり、
年々背中や腰、頭にも炎症がでるようになっていきました。
私の両親は、私が生まれる前から共働きでした。
母はいつも忙しかったので
私は預かり時間の長い保育園で育ちました。
保育園のお迎えは
基本的に親が直接迎えに来て
夕方にお迎えが来次第
それぞれ保護者と帰っていくシステムでした。
私のお迎えは、いつも最後のほうでした。
友達が1人帰っては、遊び相手が1人減り
1人減っては、また1人・・・
また1人帰ってはまた1人・・・
どんどんみんなが帰っていき
辺りもすっかり暗くなっていました。
最後は誰も居なくなり、残るは先生と、私一人。
私がいる部屋だけが
取り残されたように灯りがついていました。
「あずさちゃんのお母さん、遅いね。」
先生はそう言いました。
私は返事をすることが出来ませんでした。
なんて言葉を返せばいいのか、
どうしていいのか、 わからなかった。
「この時間が早く過ぎればいいのに。お母さん、早く来ないかな。
先生も待たせてしまって悪いな。きっと早く帰りたいだろうにな。」
泣きそうになりながら
心の中ではそう思っていました。
私はその頃から、自分の気持ちよりも
誰かを気遣う事を覚えました。
母の迎えは恒例のように遅く、
時には母ではなく、おばさんが代わりに
迎えに来る時もありました。
小学校に上がっても防災訓練の途中下校で
親が来れないので、友達の親と一緒に帰ったりする事もありました。
私は迎えに来てくれない母が嫌いでした。
迎えに来れないのは私が愛されてないからなの?
私が大事じゃないから迎えにこないの?
どうして私だけ、いつも取り残されるの・・・?
そう思っていました。
アトピーの最大の理由が”我慢”だった。
いつも忙しそうにしている母を見て
私は我がままを言う事が出来ませんでした。
小学校の途中で入った学童で、お迎え時間ギリギリに
母が「ごめんね?!」と走りながら迎えに来た時。
本当は泣きながら「遅い!」と怒りたかった。
だけど、出来なかった。
忙しそうに、ヒールをコツコツ鳴らして
必死に走ってくる母を見て
少し苦笑いしながら見る事しか
自分には出来なかったのです。
でも、本当の本当は寂しかった。
子供のように、泣きたかった。
母にもっと甘えたかった。
甘えたいのに、甘えられなかった。
「私がしっかりしなければ」
「泣いちゃいけない」
「泣く事は、弱さを見せる事だ」
私はいつも自分の寂しさを必死に抑えて
我慢して生きていました。
だから小さい頃から
周りの友達や親戚からは
「凄いしっかりしてるね」
「大人っぽいね」
と言われ続けてきました。
顔で笑いながら
そんなのは褒め言葉でもなんでもない。
と、心の中でいつも思っていました。
そんな生きづらさを感じながら
子供になれないまま大人になり
私は成長していきました。
自分の体は自分で守るしかない。
中高生の頃は薬で
アトピーを抑える事が出来ていました。
この時期は汗もよくかいていたので
汗から老廃物がしっかり出ていたのだと思います。
しかし社会人になって目立った
運動をしなくなってから、事態は悪化しました。
慣れない立ち仕事
外の空気を吸えないファッションビル
蛍光灯が何十個も並び、その光を浴びながら、
8時間を過ごす化粧品専門店。
その当時はシフト制の勤務だった為
生活スタイルも崩れ、ストレスがたまったのか
徐々にかゆみを感じる時間が増え
掻いてしまう手を抑えなられなくなっていき、
だんだんと、炎症が私の身体を覆っていきました。
最初はステロイド薬のレベルを上げて
対応していましたが、その薬もすぐに効かなくなりました。
薬がなくなる度に皮ふ科に行き薬をもらっていましたが
私、いつまで薬を塗り続けるんだろう?
という、ふとした疑問が浮かびあがりました。
そんな時、ついに医者に「これ以上、強い薬は出せない」
と言われる日が来ました。
その後、何件も自分の事を理解してくれる皮ふ科がないか、探しました。
評判の良い皮ふ科をはしごしたりもしましたが
3時間待てど3分の診療で帰らされ
私の話を聞くどころか患部を見て
「薬、だしときますから」
と同じ薬をだされ、冷たくあしらわれ続けました。
こうして私は、医者を信じれなくなりました。
薬もない。医者も信じられない。
だったら、もう自分を信じるしかない。
こうして私は自分の病気を自分で治す事に決めました。
”頑張る”が正解ではない事を知った。
自分でアトピーを治そうと決意してからは
ひたすらアトピーに関する情報を探しました。
探しては試し
また新しい情報を入手しては試し・・・・その繰り返しでした。
ステロイド薬を辞め、保湿を辞め・・・
その期間にたくさんの治療法を試しました。
人参りんごジュース(その当時はブレンダーなんて洒落たもんないから飲み心地最悪)
しょうが紅茶(リアル生姜を擦って入れる)
シャワーヘッドの交換(よくわからん)
野菜スープのみの断食(単純に飽きる)
ソープを使わないお湯のみでのボディケア(たまに酸化した油脂が湯船に浮く)
空気清浄機の購入(元々アレルギーないんだった)
ボラージオイル(空気に触れるとくさくなる)
ルイボスティー(毎日は飽きる)
ドクダミ茶(まずい)
ありとあらゆることをしました。
でもどれも続きませんでした。
なぜなら
どれもやりたくないのに
嫌々やっていた事だったからです。
楽しくない美味しくない
精神的につらい、応援してくれる人もいない・・・
治療は頑張れば結果がでるものではなく
自分が楽しく続けられる事が大事なんだという事に気づきました。
でもその中でも
仕事は続けなければいけません。
その当時、私は化粧品販売の仕事をしていたので
アトピーの自分が人を綺麗にする仕事をし
お客さんに肌の指導をする自分が凄く嫌でした。
「人前にでたくない、顔を見られたくない・・・」
いつも症状のひどい首を隠す為に
襟付きのワイシャツを立てて着ていました。
夕方になるとトイレにいくフリをして
トイレで背中を掻いていました。
夜はかゆみに襲われ身体に熱がこもり
かゆくて全く眠れませんでした。
毎日古くなった鱗のような皮ふの粉が
布団の上にたくさん落ち
お風呂に入れば皮ふの粉と酸化した油が
湯船にぶわ~っと浮くのが確認出来ました。
(汚い話でごめんなさい)
母には「一番風呂には入らないで」と
酷い事を言われたりもしました。
毎日が苦痛で苦痛で仕方ありませんでした。
こんな自分が、自分で嫌でした。
(でも何故か死にたいとは一度も思わなかったのが不思議)
とにかく苦しかった。憎かった。
普通に生きれない事が、悔しかったんです。
だから私は
どうしてもアトピーを治したかった。諦めたくなかったんです。
こんな身体で好きな服も着れないで
惨めな想いをして一生を過ごすなんて絶対に嫌だった。
だから諦めませんでした。
3ヶ月環境と生活を変えたら人生変わった。
そんな中、その当時の勤め先の社長が
私にこう声をかけてくれました。
「うおやさん、健康とか漢方に興味あったよね?」
「今度、うちで漢方を取り入れた化粧品や
お茶を取り扱おうと思うんだけど、本社の九州に研修に行ってみない?」
これが、私の最大の転機でした。
3ヶ月間、私は九州で漢方薬局の手伝いをし
休日は1人で色んな所を探検したり大分の湯布院へ旅行をしたりと
九州の街を堪能していました。
職場が漢方薬局だった事が、アトピーの私には最適でした。
この時期、私の体質に合わせて当帰芍薬散という漢方薬を処方してもらったり
東洋医学を勉強しながら食事で体調を整えることも
生活に取り入れていきました。
こうして私は九州で、漢方と東洋医学に出会いました。
九州での3ヶ月はあっという間に過ぎていきました。
九州は楽しすぎて食事も美味しすぎて
3ヶ月が過ぎる頃には 5キロも太りましたが(笑)
気づいたら、「かゆみ」を気にしない身体になっていました。
忘れていた、という感覚でした。
何より、漢方と東洋医学の食の知恵を活かす事で
身体が変化していく事が感じ取れたのでとても楽しい毎日でした。
東京での生活と違い九州では生活リズムが
整っていた事も、 とても良かったのだと思います。
この3ヶ月間で、私のアトピーは見事に完治しました。
ステロイドを辞め自分で治療を初めてから、2年が経っていました。
アトピー治療に一番良かったのは生活が楽しく充実していたので
アトピーを忘れていたということ。
そしてこの時期に私がした事は
環境を全て変え(場所、人、仕事、生活リズム)
漢方を飲み、食事に気を使い始めたこと
でした。
毒にも薬にもなる母と娘の関係。
アトピーが完治して数年が経ちふと気づいたことがあります。
それは
小さい頃お風呂上がりに母に
薬を塗ってもらう時間が好きだったという事。
何故だろう??と考え出したら
たくさん感情が溢れ出してきました。
・薬を塗る母の手は、いつも温かくて柔らかかった。
・その時間だけは、自分の事を見ていてくれていた。
・その時間だけは、母を感じれる事が出来た。
・その時間が私にとって、母と私との唯一の二人の時間と感じていた。
私は
母に構ってもらいたかった。自分を見てもらいたかった。
だから、私にはアトピーが必要だったんだ。
だから、アトピーだったんだ。
私がアトピーだった理由は
アトピーでいる事で母に気にかけてもらえる
という意識が身体に働いていたから?かもしれません。
アトピーは心のストレスを
身体で表現する一つのツールだった。
この事に気づいた時
私は涙が止まりませんでした。
人間の心と身体がつながっているというのは
この事を言うのかと気づいた瞬間でした。
こうして私は自分の我慢や頑張ることがストレスとなり
アトピーになっていた事に気づき
我慢をやめ頑張るのをやめること
ご機嫌な楽しい環境で日々を過ごす事で
健康な体へと大変化を遂げました。
仕事のしすぎで生理痛が悪化。救急車で運ばれる。
私には、春夏秋冬欠かせないものがあります。
それが腹巻とホッカイロです。
(ちなむと、夏場のホッカイロは買うとこない&高い)
生理のときの外出でこの二つがあるとないとじゃ天と地の差なのです。
ないと、本当お腹痛くて昔は動けなくなってしまう事も。
この暑い日に!? 真夏でも??
と思われた方もいるかも知れません。
でも私の子宮には四季は関係ないんです。
四季に関わらず生理の時はもうめちゃめちゃブルーだし
痛いし、大変なんです。
でも温めるだけで、すっごくすっごく楽になる。
私は中学生の時からずーっと生理痛がひどくて
薬を飲んでも効かなかったり
貧血になって下校中
道に座り込んだり
通学中や通勤中、駅の事務室で
何度も休ませてもらっていました。
ひどい時は吐いてしまうこともしばしば…
自分に自己嫌悪することもたくさんあった。
まわりに迷惑かけて申し訳ないなって思ってたし
はやく終われっていつも思ってました。
ずっとこの身体と付き合っていくのが
本当にしんどかったし絶対なにか病気が
あるんじゃないかってずっと思ってたんです。
成人になって仕事がピークに忙しく
ストレスMAXで生理が重なった時。
通勤中にめまいがして駅の事務室で
休ませてもらってたら、救急車を呼ばれてしまって。。
いつものことだから大丈夫って
思ってたんだけど、一応いろいろ検査してもらって。
そしたら見つかったのが
子宮頸がん軽度異形成でした。
子宮頸がん軽度異形成発覚。1人病院で泣いた日。
子宮頸がん軽度異形成と診断され
ものすごくショックでした。
なんで私だけ・・・?
なんで私がこんな目に合うの?
今まで一生懸命頑張って働いてきたのに。
受付の待合室で1人泣きました。
自分を大切に出来なかった事を、とてもとても後悔しました。
親になんて伝えよう。
彼になんて伝えよう。
職場の人になんて伝えよう。
自分が病気になったのに
そこにはまだ他人のことを
優先して考える自分がいました。
それからは、生理痛がひどかった以前にも増して
体を冷やさないように気をつけ
ストレスをためないように気をつけ
残業しない、頑張らない、我慢しないを徹底しました。
月に一度起こる月経は私にとって憂鬱で
しんどくてつらくて大変で嫌いなものだったのだけど
今は大事に思えるっていうか
ありがとうって思えるようになりました。
月経は、いつも頑張り過ぎる私に
「休んで、無理しないで」というサインをだしてくれるからです。
今まではそんなのなりふり構わず
がむしゃらに働いてきました。
でもこうやって痛みにして
私に表してくれるのには
ワケがあったんだって
今はそうおもっています。
頑張り過ぎの私は
身体がこんなにも痛みを発しないと
頑張ること、無理することをやめれませんでした。
自分を、子宮を酷使しすぎたと
この歳になって反省しとります。
こんな想いをたくさん抱えてきたからこそ
私はやっと頑張りすぎてしまう
自分を変えることが出来ました。
そのおかげで子宮の病気は1年で陰性にすることが出来ました。
バリキャリからの卒業。デキる自分を舞台から降ろす。
重度だったアトピーの完治。
重い生理痛からの子宮頸がん軽度異形成からの陰性。
全部全部
長女気質で
頑張りすぎるほど頑張り屋で
頼るのがへたで甘えるのが苦手で
頑張るのが正義だと思っていて
仕事がデキる自分がカッコいいと思っていた。
そんな私が産んだ病気だったんです。
もう1人で頑張らない。我慢しない。
私を私の人生を、私は私の理想を叶えて、自分らしく生きるんだ!
そう決めて、ポンコツな自分を選択した今があります。
最初はラクをすることや誰かに甘えたり
頼ったりする事に、死ぬほど抵抗がありました。
だって頑張る事、自立する事こそが
自分の中の正しさだったからです。
でももう散々頑張った。病気にもなった。
もう疲れたんです。笑
だから社会とも他人とも自分とも戦わない。
我輩はポンコツである。
とは誰にも言ってないけど笑
もう頑張る自分
デキる自分は卒業して
自分はいつもご機嫌に
周りのデキる人に頼りまくる
ライフスタイルを送っております。
ポンコツな自分を許したら26日後に社長の彼が出来た。
私が頑張るのをやめた時、一番最初にやったことは
頑張らなくてもうまくいく自分をイメージすることでした。
今までは頑張って何でも出来るようになった自分が
評価されてると思ってました。
でも頑張らずに可愛く
うまくいっちゃってる部下とかを見ると
最初はイラっとしつつも
何というか頑張ってるのがアホらしく感じて笑
もう無駄な抵抗はやめて
ラクに簡単にうまくいく人生にシフトしようって
そっちを望んでる自分に降参したんです。
そしたら、今まで
散々バリキャリやってた私の中から
養ってもらいたいという望みが出てきまして!
これも最初は自立した女が
かっこいいって思ってたから、凄い抵抗がありました。
でもそれが私の本望なら叶えてあげようと
その願いに許可を出したんですね。
そしたらその望みを許可した瞬間から
スーン!と彼と出会いがあり、26日後には
今の彼とお付き合いをしていました。
ポンコツでわがままで
ガサツで大胆な私(笑)とは対称に
彼は優しくて穏やかで
丁寧で仕事をコツコツする人。
私がAmazon primeで田中みな実見て
ご機嫌に半身浴してる間に
私の仕事をサクサク進めてくれる、そんな人です。
いつも仕事も心も、愛をもって支えてもらってます。
この場を借りて、いつもありがとう。
(公開ラブレター!w)
そしてこれからもよろしくお願いします。
みんなでポンコツ女子になっちゃおうじゃないか
ということで私からの提案は
このブログのタイトル通り
いつも頑張りすぎて疲れちゃうアラサー女子たちに
そろそろポンコツになりませんか?っていうお誘いのブログなのです。笑
もう、みんなそろそろラクに幸せになろーぜ。って
ごめんなさい、深夜のテンションです、今。笑
てな感じで、だいぶ長い自己紹介になりましたが
これにて私のプロフィールとして、しめさせて頂きたいと思います。
こんな私ですが、頑張るのに疲れたら
ぜひポンコツになる勇気をもってお気軽にLINEで声かけてくださいね。
ではでは!